反比例
誰かのことを好きだと意識してしまうほど、自分のことが嫌いになっていく。
私がもしも誰から見てもすごく綺麗で可愛い女性なら、もっと彼からも愛されるのかな、とか。
しょうがなくかまいつづけてるだけで、本当はこんな小賢しい理屈っぽい女、と馬鹿にされてるか、そもそも恋愛対象にすらなってないんだろうな、とか。
母は、すごく私の色恋沙汰を嫌がりました。
それは、小学生のときの軽い好き嫌いみたいなものを含めて。
色気付く前にやることがあるじゃないか、
色気付いてるからこんなミスをするんだ、とか、
あんたみたいなのがチヤホヤされるなんておかしいし、勘違い女ほどみっともないものはない。とか。
思春期になり、とてつもなく好きな人ができたとき、同時に私の心の中には絶望が生まれました。
色気付いてしまった。でもそれは止められない。
なんとしても悟られないようにしなければ…!!と。
実際、実家に当時一緒に帰るレベルの男子から家電に連絡があった時、その時点で母は凄まじく機嫌が悪くなりました。
誰かを好きになることは、私にとってはバレてはいけない秘密を一つ増やすことで、喜ばしいことでは全くありませんでした。
それが、結婚適齢期と呼ばれるようになった年齢からは、手の平を返したように、
「あんた、いい人いないの?」
と言ってくるようになりました。
そんな生活してるから誰も相手にしてくれないとか、そりゃそんなんじゃあんたみたいなのとは結婚したいと思わないとか、一度も他人と暮らしたことのない人間が偉そうに言うなとか。
いやーもう、そりゃ私は粗だらけですけど、どうしたらよかったんでしょうね。笑
だって、散々恋愛は悪いことって植え付けられたのに、いきなり25歳とかになって恋愛をオープンにして今恋愛してまーす!なんて言うわけないじゃないですか。笑
そして挙げ句の果てに
「お前は隠し事ばっかり。」
じゃあ私は結婚適齢期までだれも好きにならず、適齢期と認められる歳になれば急に誰かに言い寄られて結婚すればよかったのか。
そんなこと求めるには私はスペックが低すぎる。
そこで、反発して恋愛をすすめるほどの自信が私にはなかったし、相手にもそこまで好きと思ってもらえてなかったと思う。
私にとってその人を好きだと認めることは、自分の存在のしょうもなさを見つめ直すこと。
一人で孤独に恋愛相手と向き合わなければいけない忍耐を持つと誓うこと。
幸せとは、程遠いものです。